そして離婚後十年、果たしてその時は来た。「社会人にするのには、すれっからしの親父が育てた方がいいのではないか」と、うすうす考えていた頃、彼等も三人で相談して、私と暮らす決意をしてきたのである。
長女大学一年、長男高校一年、次女中学一年にそれぞれ成長していたが、まだ充分に悩める年頃であった。
脳天気な独身生活は、かくして犬三頭がおまけについた騒然たる父子家庭に一変した。
二階の書斎と私の寝室、客間をひとりずつにあてがい、私は一階の和室で万年床生活と相なった。
作家が書斎を明け渡すに当たっては一寸した決意を要したが、「そのくらいオゴらないで離婚の償いが出来るか」と、自分にいいきかせた。
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家庭再開の手始めに私が一番こだわったのは食事である。とりわけ夕食は出来るだけ一緒に作り、みんなで食うことを旨とした。
みずから作った食事は残さないものである。従って三人の偏食もなくなり、持病などもいつか癒えてしまった。医食同源だ。
又、食卓を囲めばおしゃべりをすることになる。そんな時にはどさくさにまぎれて、食事のマナーや、世俗のルールなども教えた。 家は、原則オープンハウスにし、友人達の出入りを自由にさせてやった。羽目をはずした時には叱りとばしもしたが、あとでは必ず、何故、私がそうしたのかを、覚めた頭でしたためた手紙を部屋の床にしのばせた。又、言い分があれば話を聞く時間もこさえた。 夜中に水割りをなめながら原稿を書くならいなので、しらじら明けになってから前夜もどして味付けしたカンピョウを弁当の海苔巻きに作る。
ゴミ出しをすませ、「朝食は……を食え」といった指示をメモにして泥の如く眠る。
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年頃の子達であるから、男女関係の掟や避妊、性病のことも教えておかなくてはいけなかったし、金の遣い方や酒の呑み方、権利や義務の考え方、ニュースの裏読みなども、日常のよしなし事にかこつけて教えた。
こうして「年長組」から一人ずつ社会へ押し出して、今は最後の一人も職を得、我が家を卒業させられようとしている。
三十年の永きに亘る青春のあと始末である。十年前までは、「若い若い」とおだてられてヤニさがっていた私だが、ふと気づくとひげは白く、頭はスダレ状態と化している。
だが、私は毒気のぬけた今の自分が、人生の中で一番気に入っている。それは子等が皆、そこそこの大人になってくれたことで、私自身も真の自立を果たせたからだろう。
そして今の私の彼等へのメッセージは、
「おーい、みんな。勝手に幸福になれ」
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